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アマル・シング (タンジャーヴール藩王) : ウィキペディア日本語版
アマル・シング (タンジャーヴール藩王)

アマル・シングマラーティー語:रामस्वामी अमरसिंह भोसले, Amar Singh, 1738年以降 - 1802年4月19日)は、南インドタミル地方タンジャーヴール藩王国の君主(在位:1793年 - 1798年)。
==生涯==
1787年、兄のトゥラジャージー2世が死亡し、養子であるサラボージー2世が王位を継承すると、アマル・シングがその摂政となった〔Tanjore 3 〕。
1792年7月12日、アマル・シングはイギリスと軍事保護条約を結び、イギリス軍の駐留費用の負担、外交権の放棄などを定められ、実質的にその保護下に置かれることとなった(タンジャーヴール藩王国)〔Tanjore 3 〕〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.206〕。
1793年、アマル・シングはイギリスのマドラス知事により、兄の正統な後継者とされ、
サラボージー2世は廃位された〔Tanjore 3 〕。
1798年、サラボージー2世が王位を主張したことから問題が発生し、同年6月29日にアマル・シングは退位し、サラボージー2世が復位した〔Tanjore 3 〕〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、pp.207-208〕。
1802年4月19日、アマル・シングはタンジャーヴールにおいて死亡した〔Tanjore 3 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アマル・シング (タンジャーヴール藩王)」の詳細全文を読む



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